熊野古道には、約1800年前に発見されたと伝わる、日本最古の温泉「湯の峰温泉」があります。
この湯の峰温泉には、室町時代から語り継がれてきた「小栗判官物語」という伝説があります。
愛し合う二人は、彼女の父の許しを得ることができず、駆け落ちします。しかし、そのことが父の怒りを買い、男は命を奪われてしまいます。ところが、閻魔大王の計らいによって、男は餓鬼のような姿となってこの世に戻されます。目も見えず、耳も聞こえず、話すこともできない。そんな男を彼女は苦難の末、熊野・湯の峰まで連れてきます。
そして、熊野権現のご加護と湯の峰の薬湯によって、男はついに元の姿を取り戻した——。
そんな奇跡の物語が、今もこの地に語り継がれています。
その湯の峰温泉にあるのが、「つぼ湯」です。
つぼ湯は、熊野古道を歩く参詣者が熊野詣の途中で身を清めた「湯垢離場(ゆごりば)」として、古くから熊野信仰と深く結びついてきました。
そして現在、世界遺産に登録されている温泉として知られるこの「つぼ湯」に、実際に浸かってきました。

昔ながらの温泉情緒が残る湯の峰温泉
湯の峰温泉は、今も昔ながらの温泉情緒を残す、小さな温泉街です。
山あいを流れる川に沿って旅館や民宿が並び、派手な観光地とは違った、静かでこぢんまりとした雰囲気があります。
私はこの雰囲気が大好きです。
近露から車で約20分ということもあり、休日になると湯の峰温泉の公衆浴場へ温泉に浸かりに来ることがあります。
私にとって、ここでゆっくり温泉に浸かることは、休日の楽しみの一つになっています。

いよいよ「つぼ湯」へ
公衆浴場の前にある受付で料金を支払い、番号札を受け取ります。そこから50mほど歩いた渓流のほとりに、つぼ湯があります。
今回は真夏のオフシーズン。それも午前中の早い時間に訪れたので、順番を待つことなく、すぐに入ることができました。
春や秋のハイシーズンには長い待ち時間になることもあるようです。

つぼ湯は1組ずつ貸し切りで利用し、入浴時間は30分以内。
苔むした板葺きの屋根と木造の小さな湯小屋。
これが何ともいい風情です。


靴を脱いで中へ入ると、自然にできた岩の窪みを利用した、2mほどの小さな湯船があります。
大人二人が入ればいっぱいになるくらいの広さです。

さっそく湯に手をつけてみると……
熱い!
湧き出した源泉そのままなので、そのまま入るにはかなり熱く感じます。そこで水を足し、「湯かき」でかき混ぜながら、自分にちょうどいい湯温に調整していきます。こんなことができるのも、小さな湯船だからこそですね。
大きな温泉では、自分好みに水を足して温度を調整するなんて、なかなかできません。

「なるほど、これは壺だ!」
ちょうどいい温度になったところで、ゆっくりと足を踏み入れ、身体を沈めていきます。岩の湯船は思っていた以上に深く、立った状態でも私のお尻くらいまで湯につかります。
そこで納得しました。「なるほど!これは壺のようだ!」
少し身体を屈めるだけで、肩までしっかり湯につかることができます。
小さな岩の湯船に身体をすっぽり収めていると、まさに壺の中に入っているような感覚です。

板塀の隙間や、岩の床と壁の間から柔らかな光が差し込みます。その光が岩肌や湯面を照らし、反射した光が湯小屋の中に独特の雰囲気をつくっています。
聞こえてくるのは、すぐそばを流れる渓流の音と、夏のセミの声。そんな自然の音に耳を澄ませながら、地中から湧き出した温泉に身体を委ねていると、少しずつ力が抜けていきます。心までゆるんでいくようで、とても心地いい。
独特の泉質を感じますが、匂いはそれほど強くなく、湯はとてもなめらかに感じました。

熊野古道を歩いたあとに入ったら……
この日は車で来ましたが、湯につかりながら、こんなことを考えていました。「熊野古道を歩いたあと、この湯につかったら最高だろうな」一日歩き続けた身体を、この小さな岩風呂に沈める。疲れた筋肉がほぐれていき、今日一日歩いた熊野古道の景色をゆっくりと思い返す。「あの坂はきつかったな」「あの森はきれいだったな」そんなことを思いながら、歩き終えた達成感とともに温泉につかる。想像していると、私もまた熊野古道を歩きたくなってきました。
約1800年前に発見されたと伝わる、山深いこの温泉で、自分だけの時間を過ごす。最初は「30分では短くて物足りないのでは?」と思っていました。ところが実際に入ってみると、湯の温度のせいもあって、30分でも十分に満足できました。湯から上がったあとも身体はずっとポカポカ。身体の芯まで温まっているように感じます。そして何より、あの小栗判官を蘇らせたと伝わる薬湯です。そう思って入っていると、なんだか身体の悪いところまで癒されたような気がしてきます。こういう伝説を知ってから温泉に入ると、同じ湯でも感じ方が少し変わるから不思議ですね。
冬に来るのもよさそうです。寒い冬、山あいの冷たい空気の中でこの湯につかり、身体の芯までしっかり温める。夏とはまた違った、つぼ湯の魅力を味わえるのではないでしょうか。

入浴後は温泉卵づくり
そして、つぼ湯から上がったあと、もう一つやってみたかったことがありました。温泉卵づくりです。公衆浴場とつぼ湯の間には、90℃以上の源泉が湧き出している「湯筒」があります。 ここに生卵を入れて、温泉卵をつくることができます。


卵は公衆浴場受付の隣にあるお店で購入しました。卵を湯筒につるして、待つこと約12分。
ここでは卵だけでなく、とうもろこしやサツマイモなどを茹でる人もいるそうです。自然から湧き出した温泉で、自然の恵みを調理する。それだけでも、なんだか贅沢な感じがします。しかも、小栗判官を蘇らせたと伝わる「奇跡の湯」。そう考えると、いつものゆで卵まで、少し特別なものに思えてきます。




出来上がった卵を持って、近くのお寺の境内へ。
腰を下ろして殻を剥きます。ところが、この殻を剥くのがなかなかの一苦労(笑)。
それでも、湯の峰温泉の昔ながらの景色を眺めながら食べる温泉卵は格別でした。
温泉につかり、渓流の音を聞き、最後は温泉で茹でた卵を食べる。何度も訪れている湯の峰温泉ですが、今回はいつもとは少し違う時間を過ごすことができました。

熊野古道を歩いた人々が、古くからこの地で身体を清め、疲れを癒してきたことを思うと、湯の峰温泉は単なる「温泉地」ではないのだと改めて感じます。
熊野の自然、信仰、歴史、そして人々の営み。それらが今も小さな温泉街の中に息づいている。
そんなことを感じながら過ごした、夏の湯の峰温泉でした。
熊野古道中辺路ルートお勧めの宿泊先
🏡 Guesthouse COZY(近露)
滝尻王子から約13km。
熊野本宮大社までの中間地点にあり、翌日のロングコースにも余裕をもって出発できます。
3部屋だけの小さな宿だからこそ、夕食では世界中から集まったハイカーとの交流も旅の思い出になります。



